姨捨山に骨を拾いに行くー帰国支援というのは単なる欺瞞で、体のいいやっかい払いだったんだろうか?

3月にタイに追跡調査に行ったAIDS患者が、7月の上旬、亡くなった。昨年の正月にも、同様に追跡していた患者さんを亡くした。訃報はすぐに複数のルートから届いたけれど、詳細は伝わってこないまま時間が経ち、無力感も相まって頭の片隅に追いやっていた。3月に訪問した際には、タイ帰国後も順調に治療を始めていた様子に安心していたけれど、それはぬか喜びだった。患者の置かれた状況を見誤ったことが悔しい。

大切なのは、こうした外国人AIDS患者の門前払いは東京・千葉・神奈川といった南関東ではまず起こらないということだ。医療通訳の充実や外国人コミュニティーの成熟はもちろんだが、それ以上に、行政が経済的な後ろ盾として構えており、また市民社会の監視の目が医療機関に対して絶えず注がれていることも大きい。そういう場所では、患者は比較的早期に医療機関を受診するし、軽症のうちに帰国支援ができる。

タイ保健省のキャビネットにはThai workers in Japan と背表紙に書かれた分厚いファイルがある。 日本におけるタイ人就労者の健康問題は大きな課題だ。

タイ保健省のキャビネットにはThai workers in Japan と背表紙に書かれた分厚いファイルがある。 日本におけるタイ人就労者の健康問題は大きな課題だ。

そもそも帰国支援スキーム(日本国内では急性期の治療だけ行って、HAART導入以降はタイで行う)は、次善の策に過ぎない。タイをはじめとする途上国でも抗HIV薬の入手が容易になってきたから、人道的にもぎりぎり許容されているが、それすら長野県では機能しない。応召義務を反故にする運用知を積み上げたって、むなしいばかりじゃないのか。

結局、帰国支援というのは単なる欺瞞で、体のいいやっかい払いだったんだろうか。やっかい払いがすんだあとの追跡調査なんて、姨捨山に骨を拾いに行くようなものだったのかもしれない。

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HIV難民という視座・単回調査の限界

■プロローグ HIV難民という視座

HIV に感染した結果、職と家庭とを失い、社会の片隅にあるホスピス寺でひっそりと暮らすタイの人々がいる。ある日突然それまでの生活の場から切り離され、山間の寺に追いやられる人々の生き様は、政治や宗教を理由に迫害され、住みかを失った難民を思い起こさせる。

日本にも同じような境遇におかれるタイの人々がいる。建設現場で安価な労働力を提供するタイの男性や、夜のネオン街で渦巻く欲望に応える女性は、日本で HIV に感染しても治療の機会を得られないことが多い。滞在資格を持たず、日本の社会保障の編み目からこぼれ落ちてしまった彼らは、そもそもパスポートすら持ち合わせず、帰国さえかなわないこともある。

タイ国内、国外を問わず、両者に共通するのは、HIV 感染が原因となり、それまでと同様の生活が送れなくなってしまった、という点である。単に HIV に感染した難民という意味合いではなく、より広い(そして大雑把な)括りとして、ここで新たに HIV 難民を試みに定義したい。「HIV難民とは、HIV 感染を理由として、それまでと同様の生活を送れなくなった社会的弱者をいう。」

こうした HIV 難民がおかれる苦境を看過してよいのかという問いかけが私たちの問題意識であり、本稿に通底するまなざしである。第1章ではタイのホスピス寺で行ったボランティア活動を通して見知ったタイ国内の HIV 難民の境遇について紹介し、第2章では日本におけるタイ人 HIV 難民への支援の実際と課題とを、帰国支援した患者の追跡調査を通じてまとめた。

HAART — 30床強のなかで5人が30バーツ医療制度を利用して(2006/11から一部負担金も廃止)HAARTを受けていた。タイ政府が主導して生産するジェネリックのGPO-VIRはd4T(NRTI), 3TC(NRTI), NVP(NNRTI)の合剤で、一月一人1000バーツ(3000円)を割ったという。日本で同様のレジメンを処方すると、15万円強になる。

HAART — エイズホスピスのパバナプ寺では、2007年の訪問時、30床強のなかで5人が30バーツ医療制度を利用して(2006/11から一部負担金も廃止)HAARTを受けていた。タイ政府が主導して生産するジェネリックのGPO-VIRはd4T(NRTI), 3TC(NRTI), NVP(NNRTI)の合剤で、一月一人1000バーツ(3000円)を割ったという。日本で同様のレジメンを処方すると、15万円強になる。

■エピローグ 単回調査の限界

私たちの調査は、現地に事務所がある組織が行うものではないため、基本的には一度きりのものである。P氏の現状は放置できないものだったので、できることなら私たちもP氏と共に連れだって郡役場まで出向き、住民登録申請をし、病院で30バーツ制度に申請して受診するところまで手伝いたいという考えが浮かんだ。交通費くらいならば私たちの身銭を切っても、さして懐が痛むものではない。

しかし、現地の制度に対して十分な理解があるわけでもなく、もちろん言葉の壁は高く、しかも継続的な支援ができる立場にもない無責任な調査者である私たちには、実際の所、「30バーツ制度に申請しましょう、病院を受診しましょう」とP氏に頼み込むのが精一杯だった。

継続的なフォローアップが必要なゆえんはここにある。単発の調査では、患者本人に直接支援の手をさしのべることは難しい。帰国支援の一部として、帰国後の治療サービスへのアクセスをきちんと支援する仕組みを作らなくてはならない、そう切実に思った。

その後11月になって、とある全国紙の記者がP氏の元を訪ね、そのときの様子をメールで知らせてくれた。P氏は未だなお治療を始めておらず、私たちが訪れたときとは別人のようにやつれ、見当識も怪しく、病状の進行を伺わせたという。自体は急速に悪い方向へ向かっているようだった。

筆者は2007年2月に再度タイを訪れる機会があった。かねてから気にかかっていたP氏を訪ねて、半年ぶりに再び懐かしい道をたどった。高速道路沿いの商店も、P氏宅へ続く脇道の角にある食堂も、半年前となに一つかわらぬ佇まいで、私の不安は薄められる思いだった。

しかし、現実は生やさしいノスタルジーで揺らぐものではない。予想していないわけではなかったものの、笑顔のP氏の遺影が壁に掛けられているのを目の当たりにするのは、大変つらい経験だった。彼は結局、治療を受けない選択をしたか、受けようにも受けられなかったのか、いずれにしても未加療のまま2007年1月3日に他界したのだった。44歳の若さだった。

P氏の日本滞在中のアルバムをめくりながら、A姉さんとふたり泣いた。アルバムの中の彼は、凍てつく信州の冬、慣れない雪かきをした後、仲間たちと鍋を囲んでキリンラガーを片手にご機嫌な笑顔を向けているのだった。

P氏の冥福を祈ると同時に、彼の死が無駄に終わらず、今後の帰国支援の充実に活かされるよう強く願います。

タイ・ラオスとの国境の町ノンカイにて
平成19年2月 座光寺正裕

PDFでの報告書全文はこち
http://tropical.umin.ac.jp/report/06thai.pdf

主を失った日本御殿ー現行の帰国支援のスキームは破綻している

朝一番にバイクを借りて、彼の家を目指してひたすら高速12号線を飛ばした。家の外でお姉さんが片づけをしていて、おひさしぶりです、弟さんの調子はどうですかと問いかけると、穏やかな声で同じ言葉を何度も繰り返した。意味はわからなかった。

彼女に招き入れられた居間の壁には、彼の笑顔の写真が掲げてあり、その下には日付と年齢が入っているらしかった。仏暦2550年ということは548引くと、西暦2007年ということだ。それはつまり、彼の遺影で、彼女が繰り返していた言葉は(居間に彼の姿がない時点で内心わかってはいたが)「死んだ」だったわけだ。旅行者向けの会話帳にそんな単語はない。

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患者さんは亡くなってた。仏歴で1月3日のことだったらしい。通院もせず、薬も飲まず、食べもしないのに水のような下痢をしながら息を引き取ったとお姉さんは淡々と語った。日本にいたころの彼の写真を部屋の置くから出してきてくれて、そのなかで彼は雪かきしたあと仕事仲間とキリンラガーを飲んでいるのだった。

結局、単なるたらいまわしだ。どうせ死ぬしかないなら、せめて祖国で死ぬほうがいくらかましと、むりくり納得するしかないのか。

AIDS発症しても、きちんと治療を受ければ社会復帰だってできるんだから、まだ44歳の若さで世を去ることはなかったんじゃないか。本人やお姉さんが、病気のことを十分には理解できていなくて、しかもその誤解をほぐす人が回りにいなかったのが大きいのか。

彼の家から車で20分のところにあるコンケン最大のシーナカリン病院の建物が、立派過ぎて虚ろだった。30バーツ制度自体が不完全なのか、あるいは住民の間で制度の使い方が十分に理解されていないのか、いずれにしても、現行の帰国支援のスキームは破綻している。引継ぎできない帰国支援は、無責任だ。

なにか、代替案はないのか。